column コラム

『アフガニスタンの診療所から』2023-002

アフガニスタンの診療所から – 中村哲
中村哲さんの著作は初めて。結構色々あるのですね。
お忙しい中、日々綿密な記録を取りながら、執筆まで行うなど・・・。できる方というのは、記録もしっかり残すものなのだ。

p.28
アジア世界では日本や韓国など。単一の言語で比較的均質化された人々をまとめうる国家は例外中の例外である。(中略)彼らにとって、国家はつけ足しの権威であり、自分の生活を律する秩序とは考えららていないのである。日本人にはこの事実がなかなか伝わりにくい。

日本の中から出たこともないような人が、海外の紛争などを読み解くのは大変なのだ。
あくまでも世の中は自治が原則で、国は規模が大きくなっただけなのだ。

P111
1988年4月14日、デクエヤル国連事務総長は、多くの難問を残したまま、ソ連軍撤退条項を含むアフガニスタン和平協定を締結させた。当時ソ連の書記長だったゴルバチョフは「全兵力9万人を九ヶ月以内に引き上げる」と宣言、おりから訪欧中の竹下総理は「日本がアフガニスタン難民期間に積極的支援をする」と表明、アフガニスタン問題は日本をもある程度まきこんだ。

そして大量の難民が予想され、国連やら各国が支援だ何だの大騒ぎをする。

P114
難民を受け入れ、ジュネーブよりは事情を知るパキスタンの意見も無視された。それどころか、頭ごしの米ソ交渉に対抗したジアウル・ハク大統領は1988年8月、白昼大統領機もろとも爆殺された。

一般的には事故として扱われている。陰謀論の類の一つに分類されるとは思うけど。
少なくともアフガニスタンの人は、そのように見ていたのだ。
国際支援を全否定するわけでもないと思うけど「現地の人」としては冷ややかに見ているのだ。

P115
チームの指導者シャワリ医師は、①ほとんどが無医村の地域で「らいだけを診る」診療は不可能なこと、②当時の力量で、北西辺境州に倍するアフガニスタン北東山岳地帯への展開はとうてい無理であること、③本格的にやるなら外国人のではなく現地の人材育成を自ら実施すべきであることを説いた。
「地元の人々の手による活動の長期継続がなければ外国人のショーで終わる」とつねづね思っていた私にとって、これはしごく当然のことであった。これまでの日本側の補給力の限界から大きな拡大はさけてきたが、ここにいたって来るべきものが来たとさとった。

きちんと現場の力を伸ばすのが必要。そのためには規模も必要。

P123
まず我々の行ったのは人材の確保である。ペシャワールには英語の流暢なアフガニスタン人の若者がおおぜいふえていたが、長い目で見てまず使い物にならない。多くは既に自分の故郷に愛着を持たなかったからである。(中略)当時ペシャワールで募集広告を出しさえすれば、山のように応募者を集めることはできた。しかし我々はあえてそれをしなかった。自ら活動予定地におもむいて「自分の村をはなれてペシャワールのようなところに行きたくない」と、故郷への愛着からむしろ嫌がる若者を説得して引き入れ、訓練をほどこしたのである。

田舎から東京へでてきた人間としてはよくわかります(笑)その土地で生きる人を育てるのに外部から連れてきても大変なのですよね。外部社長を連れてくるのか、内部から育てるのかみたいな話も一緒かな。
あまりそこを見てもとも思うけど、やっぱり組織への愛着も大事。

P129
ねらいうちにされたのはたいていが「女性の解放」に関するプロジェクトであった。そもそも伝統的イスラム社会では「女性」について外来者がよやかくいうのはタブーである。「旨をはだけて歩く女性の権利」や、自然の母性を無視してまで男と方を並べることが追求される「男女平等主義」こそ、アフガニスタンからみれば異様だとうつる。問題は、このてのプロジェクトが自国受けするテーマとして選ばれたことと、「女性を虐待する許しがたい社会の是正」が錦の御旗としてかかげられた点である。「文化侵略」とうけとられても不思議とは思われない。動あれば反動がある。女性がより自然に社会進出するけいこうh、これによって逆につみとられてしまった。

ここはメモ

P193
「人のために何かしてやるというのはいつわりだ。援助ではなく、ともに生きることだ。それで我々も支えられるのだ」というのが先生の持論だった。

この前提に、農業専門家中田正一さんの言葉として、3人が吹雪にあって、Aは先に行った、BはCを背中に背負って行った。結局BはCの暖かさ(体温)によって命をとりとめた。という話が書いてある。「ともに生きる」のだと。